メイクは自分の鎧?コンプレックスを隠す為の化粧ではキレイになれない?二重まぶたのコンプレックスの弊害。

メイクは自分の鎧?コンプレックスを隠す為の化粧ではキレイになれない?二重まぶたのコンプレックスの弊害。

 
可愛いはつくれる という言葉がありますね。
人のイメージは会って3秒で作られると言います。
今日は顔のコンプレックスのお話です。
 キレイじゃない私をつくっているのは『心のからみ』?
わたしのところに来るクライアントさん。初セッションの際にお会いして顔を見合わせると「表情が固い」方が多いのですよね。心をほぐしにいらっしゃっている方が多いので、そうっちゃそうなんですけども^^
 
たくさんの方とお話ししていて感じるのは、女性の方で圧倒的にお顔にコンプレックスを感じている方が多いのです。
写真に映るのがいや、、とか。(力を抜いて笑うと、皆さんね素敵だしかわいいんですよ。本当に。)
最近よく、芸大の同期でサロンをしている荒川さんと、施術者として心とカラダについての意見交換をしています。彼女は顔の筋肉の状態から心の状態を読んでしまったりしていて、「やっていることいっしょじゃん!」とよく笑い合っています。
 
顔の動きが心に直結するように、心の動きもカラダに直結するのではないかと。
最近感じるのは、「自分は醜い」とか「ここの部分が嫌い」とか思っていると本当に顔が時間をかけてそうなっていっちゃうのです。
心に溜めている怒りとか、劣等感とか、嫉妬とか。とくにやっかいなのがコンプレックスなのですね。これはなかなか自分だと解決するのが難しかったりするのです。
 
そんな「こころの絡み」に慣れてしまっていると、だんだん「こころが絡んだ顔」になっていってしまうのでしょうね。
 
確かに「ブサイクだ。ブサイクだ。」
と言われることは人間不信に繋がります。そんな人間不信がだんだんと心にも映って顔に出てしまうのです、、そして、その言葉は自分のなかでもリフレインされていく。そんなループがずっと続くのですね。自己受容が極端に低いことになってしまうのです。
これはとても辛いことです。。
 
「顔が違う顔だったら、、」
「こんな顔いやだ、、、わたしはブサイク」
 
と、自分で呪いをかけていってしまうことになるのでしょう、、。
きっかけは他人だったとしても、他人がずっとあなたをブサイクとジャッジしているのではなく、いつの間にか自分にいる他人が作ってしまっている可能性が高いのです。
 
そう。それは「心のからみ」なのです。
 
二重まぶたのコンプレックスと埋める化粧の弊害。
実は私は幼少期一重まぶたでした。(年齢とともに顔の肉が落ちてきて、今は二重ですけど、正直ハリがかえってきてほしい。)
今、自分の写真を見ると色々辛酸なめてきた今より、あどけなくて無垢なチビまるもえは100倍可愛い、、、笑。なんか主食が木の実っぽい。とか思うんですよね。
(ぷくぷくしたほっぺかえってこーい)
 
そんな私も自分の顔が嫌で嫌でで仕方なかった時代があります。母にね、良く言われていたんですよ。「目が小さい」「目が小さい」って。
 
若い時の母は顔立ちがはっきりしていて、自分の美貌に自信をかなりもっていたのですね。もう、それが彼女のアイデンティティで一番のプライド。まあ今思うと、バブル世代なのでその美しさっていうのも装飾的というか外見重視な感じなのです。雑誌が判断するようなね。売り物としてどうか。というような価値観なのでしょうけど、娘に対して見た目において受容的な声かけは少なかったように思いますね。
 
幼心に「目が小さい」と繰り返し言われると自分でも意識するようになっていきます。
そして参る思春期。まだギャルメイクが流行っていた時代ですから、「目が大きければ大きいほど良い」という価値観。
まだ、色んな価値観を持った沢山の方々とも出会えるような情況ではないですし、男の子だって女の子を判断する経験則とかないですしね。笑。まさに、自分の顔に自信持てない負のループです。
 
そのときから10年くらい私は、目の周りを塗ったくるようなメイクばっかりしていたんですよ。大きく見せたくて。「目が小さい私はダメだ」と。それを埋めたくて。
「それ」が埋められた自分の顔を鏡で確認していたのです。
 
商業的な意味でモノを売るには、コンプレックスに投げかけるのが一番です。
日本人の場合「多数派の人間の意見が正しい」と思ってしまうところがあります。
それには、「二重まぶた」とか「目が大きい」とか分かりやすい美の基準を作っちゃう方がてっとり早いのですよね。
 
私は二重まぶたの美意識は日本人に対して弊害のほうを多く与えていると思っています。
だって7割の日本人「一重」なのですから。全体主義なのに少数派の美意識をメジャーにしてしまったら、マッチしていないに決まっています。そして7割以上がお客さんになってくれるってことを意味しますからね。
 
「多数派の人間の意見が正しい」と思ってしまうこと。
それは、「わたし」と「他者」にしっかり境界線を引くのが苦手な日本人の性質でもあるのでです。
 
さらに、メイクした顔は私たちは自分で見ることができません。
私たちがすることはメイクした顔を鏡や写真で見ることだけなのです。
埋めるメイクはそうやって自分のコンプレックスを、自分で埋めて安心を得ているだけなんですよね。結果的に自分を苦しめることになります。
 
今、ずっと絵画に関わってきて思うのが、「無理矢理つくった二重ほど造形的に微妙なものはない」ということです。なぜかって、人は顔のパーツよりも全体性を見ているのです。目がキラッとしているとか、素敵な表情で笑うとかね。そうやって無理やり拵えた部分は上手く動かないんですよね。だから写真では良くても魅力は半分以下なんです。
 
そして、コンプレックスを埋めるメイクは、「埋められた」という気持ちとともに逆にコンプレックスを大きくしてしまうのです。
そうやったコンプレックスは時間をかけて顔に現れていきます。だから、コンプレックスを大きくすることはしない方が良いことは明確ですね。
 
こんなことがありました。フランスに留学しているときに、絵描きの男友達に言われたんですよね。
「君の真っ黒くてちいさな瞳はなんか凄いミステリアスで素敵だね」と。
(まあ、口説き文句かもしれませんがとっても年下の20歳の男の子に言われると嬉しいもんんです。うへへ〜笑いたいところをと必死におっさんなのをまるもえは隠しました)
 
 
その時くらいからほぼ毎日スッピンで、たまーに、粉ちょっとはたいて軽〜くリップ程度しか化粧していなかったのです。あ〜、こうやって見えているんだ!って思ったんですよ。その男友達に「なんでミステリアスに見えるの?」って聞いたら、
「小さな目はとっても繊細に動いているように見える」
「笑うと三日月みたいでナチュラルでキレイだ」
とかね。いろいろ描写してくれたんですね。あー、そうか形じゃなくて動きを人は見ているんだなあと思いました。
 
彼は表情についてたくさん褒めてくれたのですね。わたしの語学力はすみません状態ですが、それでも絵について話したり、日常的な会話しているなかで、彼の見ているところは「形」ではなくて「表情」だったようなのです。考え方や心が出る部分なんですね。
これには、とても考えさせられました。
 
ナチュラルな方が素敵って考え方は、ほんとうにフランスの方々は強くて、女性もリップしかつけなかったりします。ただね、リップは基本マットで色の強いものが多いんですよ。もうね、なんか言って議論しないとダメなお国柄だから口は主張させるのです。目元はね日本の目元ゴリゴリメイクをしちゃうと娼婦と間違えられちゃうのですよ。売り物の顔だって。
もうね、考え方全然ちがうじゃないですか。
 

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それから私はものすごい捉え方が変わりました。
自分たちがもっている性質を自然に表現したり表情がつくれるようにメイクはするものなんだなって思うようになったんですね。そして母から言われていたことは「一つの意見でしかない」って思うようになったのです。
 
二重がとか、一重がとかではなくて、
「自分の表情」という性質を高めるのがメイクの役割だなと。
鏡で確認すべきところは、コンプレックスではない!。と。、
人と比べることではなく自分にとっての美を追求すること。とね。
 
 
絵として私の顔はどうか?と見ていくと、小さいお目々は黒く塗りつぶして埋めていると、いつまでたっても自分の目の輝きに鏡越しに出会えないことに気づきましたし、実際、パールカラーのきれいなアイシャドウをつけて細ーくラインを引いた方が自分がキレイに見えるんですよね。自分にとって。
 
 
お化粧は女性をキレイにするものです。
心がからむようなお化粧はしないほうが、もっとキレイになれるものです。
わたしをきれいだと決めるのは「わたし」です。
 
ぜひ、もっとナチュラルにキレイになってくださいね^^
 
本日はこのあたりで〜
(あ〜自分の写真並べてみると顔のハリと、カメラの性能の違いという時間の流れはやっぱり出ちゃいますね、、トホホ)