【I LIKE ME】という絵本と自己受容。自分という一人の存在と「自己評価の低さ」の話。

 
 
 
 
 

I  LIKE ME(邦訳:わたしとなかよし)
 
【I LIKE ME】という絵本と自己受容。自分という一人の存在と「自己評価の低さ」の話。
 
I LIKE MEという絵本があります。この絵本はアメリカの小学1年生が最初に国語の時間に勉強する絵本なのだそうです。
”子ブタのわたし”は絵を描くときも、自転車に乗るときも、お風呂に入るときも
「いつもわたしは、わたしといっしょにいる」
という自己の存在をポジティブにとらえるメッセージが綴られている絵本です。
 
内容はポジティブな子豚ちゃんが"わたし"をしっかり可愛がりながら生活しています。絵本の紹介には、
 
Meet Nancy Carlson’s peppy pig—a character who is full of good feelings about herself. Her story will leave little ones feeling good about themselves, too!
 
"Little ones in need of positive reinforcement will find it here. An exuberant pig proclaims "I like me!" She likes the way she looks, and all her activities....When she makes a mistake she picks herself up and tries again." --Booklist
 
"Wonderful in its simplicity, here's a story that will help kids feel good about themselves." -- Boston
 
 ナンシーカールソンの子ブタちゃんは彼女自身へのステキな気持ちに満ちています。彼女の物語は子供たちを同じ気持ちに導いてくれるでしょう!
ポジティブな気持ちを必要とする小さな子はこの本の中に見つけることでしょう。
ゆたかな子ブタちゃんは宣言します。”わたしは”私が好き!と。彼女は自分の見た目も自分の行動も彼女のすべてが好きなのです。たとえ失敗したとしても自分で自分を励まして、また挑戦するのです。
 
この本のシンプルな素晴らしさ。彼女の話は子どもが、自分自分をステキだと感じることを助けてくれることでしょう。
 
 
ざっくりとした訳ですが、こんな感じに書かれています。すてきな絵本です。
 
最初にこの本を紹介してくださったミミさんに日本語版を朗読していただいたのですが、絵の情報と日本語の情報がなにかひっかかるのです。
たまたま原文(英)版もあったため手にとって読んでみると、英語の文章の「I like me!」のポジティブさと日本語の文章との雰囲気に違いがあることに気づきました。英語のカラッとした感じに対してウエットといいましょうか。。この文章=翻訳は”現代日本人的な感覚が強く現れているようだと感じたのです。日本語の響きには「どこか自信の無い私が、無理やり私を肯定している」ような痛々しい感じがしたのですね。
 
私にとっての英語の文章の「I like me!」の違いは顕著でした。
ぜひ二つ並べてお読みいただきたいのですが、私は自分が引っかかっていることがどうしても言語化したくなりの情報と言葉のニュアンスの違いを比べつつこの文章を書いています。絵画も言語の外の言語なのです。実は絵の方が情報量は多いので、このようなときに物事を考える大きなヒントになりますね。
まるもえは絵描きのキャリアの方が長く東京芸大絵画修士号も持ってたります)
 
ナンシーのI like me!の言葉の後ろの世界観と日本語のニュアンスの差異を読み解いていくと、、、
 
 

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 見つけました。
この話の”わたし”のうしろには必ず”見守ってくれているだれかの存在”が描かれているです。絵を描いているときの犬だったり。友だちだったり。ケーキを運んでいるときはお母さんだったり。彼女が”強くポジティブにわたしがすき”なのはそうやって安心を与えてくれる地盤があってのこそなのでしょう。
 

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この文章は原書だと”I ride fast”です

 

日本語の文章はどこか一人で鼓舞奮闘している感じがあるのです。
ともだちである「わたしに」「~してあげる」という表現が何度も出てくるのですが、
(原書はl like to take care of meにI do(現在形)の文章が続きます)
日本語この言葉のうしろには孤独と戦っている彼女がいるように思うのです。
ここに現代日本人の自己評価の低さの原因が隠されているように思えました。
 
「誰かと自分を比べるしか方法の無いわたし」の後ろには
自分が認められている安心感がほしいわたしが存在しているのではないかと。
そして、その後ろのわたしの欲求は満たされない。ふたりは一人でないからです。
 
それ故に「~してあげる」なのです。
そこには自分という一人の存在が”ただある”ことへの不安があるようにも感じます。
 
私はその不安にまずスポットを当てずに「わたしはわたしがすき」戦法で自己肯定してしまうのは、きついなあと思ってしまったんでしょう。
英語のニュアンスは「わたしと~する」という感じが強いのです。"強い現在形"私に尊敬をもって大切に「わたしに~する」
この感覚がもてるだけで大分違うのだろうなと感じます。
 
なぜなら、そんな「してあげる」のわたしは”現実の自分”と”理想の自分”が乖離して存在しています。確かに二人とも上昇志向を持っていたとしましょう。しかしながらその歩み方は大きな違いがあるように感じます。
 
 
 
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この感覚は図に直すと上記のようになります。
 
「~してあげる」わたしの本体は”理想の私”がいてそこに自分の所在地があります。
もうひとりの私は欠けていて足りないから、労わって~してあげる。ということでしょう。これではいつまでたっても自己評価つまり自己肯定感はあがりません。
だって、わたしわたしは別人で、現実のわたしは”理想のわたし”ではないのです。
 
そして、その乖離した理想のわたしは「誰の理想」でしょうか?
そこには自己受容しきれていない「わたし」の存在が見えてしまうのです。
 
多くのクライアントさんとお話していて、そんな現在の自分を好きになれない≒自己受容に苦しんでいる方にお会いすることが多くあります。もしかしたら、まるもえはそんなクライアントさんのお顔がちらついてしまったのかもしれませんね。
その理想のわたしは、過去のどこかで作られた像なのでしょう。そのパターンが知らず知らず自分の首をしめていたのかもしれません。
 
つまり過去に作られた理想のわたしが、未来に居座って胡坐をかいているような状態。
 
理想の私は未来に住んでいます。
しかし未来の実態は”先の現在”なんですね。
 
理想の私が住む未来は、今私たちが考えだした予測でしかないのです。
つまり、そこには”実体のあるわたし”は居ません。実体は今にあります。
 
今の私を”上から(未来から)”見ていると、今の私はいつまでたってもひとりぼっちで置き去りなのです。
 この本の”わたしというともだち”は
現在の私自身なのです。
そして、いっしょに”未来”を見るともだちなのでしょう。
 
わたしの感じた引っかかりはこれでした。
 
自己受容と自己評価の低さはとても密接に結びついています。
日本人的な思考性の場合、ただ単純に自己肯定して自己評価をあげたから良いとしてしまうことは少々乱暴すぎる気がします。日本人はベースが欧米的な「我ここにあり」一神教的な教育を受けた個人思考型人間ではありません。他者と自分を切り離すのが苦手な性質を持っています。
 
 
  • それがゆえに「誰に受け入れてほしいのか」
→受容欲求の方向性を認識していく
  • それはいつごろから感じているのか
→形成時間軸の流れをほどいていく
 
というように、丁寧に個人と他者を認識していく必要があるのです。
つまり集団的思考性が強いがゆえに、この部分が他人と自分と混在してしまうからこそ、その評価軸を自分に持ってくることが厳しく自己受容が難しくなってしまうのですね。大昔のように村社会としてすべてが機能してきた時代はそれで良かったのでしょう。しかし現代は自己責任と個人主義の世の中に変わっております。
 集団思考はその中で相手の事を考えて和を保つために非常に良く機能する思考性です。
ただし、その中で自分と他者を「混在」させてしまうことは生き辛さを生み出します。
 
あなたはあなた。わたしはわたし。
 
現代日本人にとっての"私が好き"になること。それは、まず自分と他者を認識することが始まりなのかもしれませんね。
 
西洋的な思考、日本的な思考。
 
色々な考え方は人を楽にしますし、逆に苦しくもさせます。
一見良く見えるものも、だからこそ混ぜ合わせるやり方を考え続けなくてはいけないのかもしれません
 
またこの内容については書きたいことがあるので書きます^^。
 
 
本日はこのあたりで〜